2018年12月09日

12月9日 日曜日

 関ヶ原にはそこから始まる北国街道を走るためにしか行ったことはなかったがわしがいちばん好きな戦国武将島津義弘巡りの手始めとして行ってみたいですにゃ 義弘が関ヶ原に行ったのは家康に頼まれて東軍に加担するためで鳥居元忠が死を決して籠城していた伏見城に入れてくれと言うが元忠にそんな話は聞いていないと断られ回りは西軍だらけの中で行き場を失い仕方なく西軍に参加した 手勢は兄の義久の方針で1000に満たなかった 余りにも小勢なので西軍の端っこに布陣した それではあんまりだというので薩摩本国から自分の意思で甲冑を担いで関ヶ原を目指す島津家中が跡を絶たなかった 「島津家中関ヶ原に罷り通る」という有名な言葉はこのときに生まれた 鬼島津と呼ばれていた義弘の意見は軍議でも受け容れられず小勢であったことからも重視されず三成の使者が何をしている戦えと馬から下りることもなく命令しに来たので腹を立てその場から動こうともせず近寄る者は敵味方の区別なく射殺した そうこうするうちにもどんどん手勢は減ってゆく 西軍がやや押し気味で戦っていたが金吾中納言小早川秀秋の裏切りで形勢は一転して西軍は我先に背後の佐和山城方面に遁走を開始した 義弘主従もそうすれば安全に逃げることが出来たがこの敗戦は島津に落ち度があったわけではなく元々は家康のために駆けつけたのである 本国から集まった者たちで一時は1500になった軍勢も300に激減していた このまま背中を見せて退散するのは島津の面目に関わると義弘はあろうことか家康の本陣目指して突撃を開始した 身軽になるために旗指物などはみんな捨てた 伊勢街道から逃げるためには家康の本陣を目指すのが最も近いという理由からであった それを察した福島正則は島津には手出しをするなと下知した とことん追撃して来たのはのちに島津の本領安堵に奔走することになる井伊直政らで島津の捨てがまりという必死の戦法のために肩を射貫かれ落馬した この2年後に直政は死亡する 大阪まで逃げた義弘一行は同じく潜伏していた立花宗茂らと船を仕立てて本国に帰った 薩摩の地を踏んだのは80名とも3名とも言われている 本国の義久には無傷の島津兵が1万以上いたので意気軒昂で紆余曲折はあったが西軍に与した大名の中で島津だけが本領安堵 義弘も一切お咎めなしになった 義弘は亡くなるまで島津兵が5000いたら勝てたと言い続けた 「島津奔る」の古本是非お読みくださいにゃ
 東京の天ぷらはごま油で揚げる 大阪は綿実油か紅花油 綿実油は100%輸入でインドの綿は遺伝子組み換えで全滅に近い 大阪の海老天は今でこそ中身の海老もしっかりあるが一昔前は衣ばっかりで身なんてなかった これは東京のいい影響を受けたのではないかと思っている
 味は保証しないがオリーブ油で揚げるのがいちばん健康にはいい
 苦楽園口の大正庵に電話してみたらやってましたのにゃ 駐車場がなくなって暫くは行く度に休みだったので困っていたけどこれでまだうまい蕎麦が食えますのにゃ よかったよかった ここには冷やしうどんに冷やしそばに冷やし素麺もありますのにゃ\(^O^)/
 ウルフギャング・ステーキハウス  ついに日本にも上陸しましたにゃ 大阪にもありますにゃ わしはもう鳥類以上の生き物の肉は進んで食わないと決めたけどシーフードもあるので肉食獣のおばはん連れて行ってみますかにゃ
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 岡田准一の関ヶ原見ましたにゃ 見せ場も何もなくつまらない作品でしたにゃ
 なにわ翁のそばはまずくはなかったけどそばは取り寄せて食うものではないということがわかりましたにゃ 店で食うものですにゃ
posted by めいちま at 15:29| Comment(0) | 日記